積善館の歴史

日本最古の温泉建築宿 長い月日の間人々に愛され、自然に守られてきました

文化財と文人墨客 積善館の歴史

明治末頃の積善館(3階建て)
明治末頃の積善館(3階建て)

明治10 積善館(2階建て)
明治10年の積善館(2階建て)

山荘築の頃の積善館
昭和12年山荘築の頃の積善館

『東条英機』 来館。 積善館 本館玄関前にて
『東条英機』 昭和17年8月来館
本館玄関前にて


『柳原白蓮』 来館。 以後数回来館
『柳原白蓮』 昭和32年6月来館
以後数回来館

『西本一都』 積善館 滴翠亭にて
『西本一都』 昭和61年7月
滴翠亭にて

建築当時の面影が残る積善館 本館 現在
元禄4年建築当時の面影が
残る本館 現在

積善館に訪れた多くの文人墨客達

田崎草雲 明治前期の日本画家。足利藩士。幕末期尊王運動に奔走。小室翠雲の師。第一回内国会が共進会「得宜」受賞。
明治16年(1883)8月来館
後藤新平 明治・大正の政治家。岩手県。明治25年衛生局長、明治31年台湾民政局長、大正12年山本内閣内相、帝都復興院総裁
明治27年(1894)6月来館。
中村不折 明治・大正期の画家、書家。仏渡帰国後、太平洋画会所属。書に関する中国の古文書を集め、書道博物館設立。
大正3年8月来館。
7代松本幸四郎 歌舞伎俳優。大正・昭和期の劇界の重鎮。9代目団十朗の芸風をうけついだ。オペラや翻訳物など新しい分野も開拓。
大東亜戦争中、四万に疎開していた。
昭和20年8月来館。
小室翠雲 明治・大正・昭和期の画家。館林。田崎草雲の弟子。文展、帝展審査員。日本南画院創立。帝室技芸院。
明治30年以後しばしば来館。
佐藤紅緑 明治・大正・昭和期の俳人、小説家。青森。詩人サトーハチロー、作家佐藤愛子の父。正岡子規に師事。「俳句小史」。
少年倶楽部に「ああ玉杯に花うけて」を発表。来館日未詳。
東条英機 昭和期の軍人・政治家。第二・第三次近衛内閣の陸相。昭和16年首相。昭和23年大東亜戦争の責任者として処刑。
昭和17年8月来館。
徳富蘇峰 明治・大正・昭和の3つの時代にわたるジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。
政治家としても活躍をして戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた人物である。
大正13年4月に来館。
柳原白蓮 大正・昭和期の歌人。東京。北小路資式と結婚、やがて離婚。請われて九州の炭坑王伊東伝右エ門と再婚。
宮崎龍介との恋愛で話題をまき、情熱の歌人といわれた。「踏絵」「幻の華」。ことだま主宰。
昭和32年6月来館。以後数回来館。
片山哲 大正・昭和期の社会運動家、政治家。和歌山。社会民衆党書記長。無産運動に活躍。敗戦後、社会党書記長、
委員長。1947年社会党首班内閣の首相。1690年民主社会党結成、最高顧問。
来館日未詳。
里見  大正・昭和期の小説家。横浜。有島武郎、生馬の弟。1910年「白樺」創刊に参加。長編小説「多情佛心」
「安城家の兄弟」が代表作。
来館日未詳。
土屋文明 歌人。群馬。伊藤佐千夫に師事。昭和5年「アララギ」の編集発行人。歌集「ふゆくさ」「住還集」「山谷集」など。
「万葉集私注」で芸術院賞受賞。群馬県名誉県民。
昭和20年11月来館。
小野佐世男 風俗画家、漫画家。横浜。女性画の第一人者。ほら話が巧み。「サルサル合戦」「女体戯話」などの画文集。
来館日未詳。
榎本健一 昭和期の喜劇俳優。東京。浅草オペラの喜劇第一人者。エノケンと呼ばれ、舞台・映画で活躍。
昭和20年来館。
丹羽文雄 昭和期の小説家。三重。「蛇と鳩」「親鸞」など有名。日本文芸家協会理事長。
昭和29年11月来館。
西本一都 逓信省各地方貯金局長を歴任。昭和39年退官後、長野市に在住。富安風生の高弟。句風は堅実な写生に徹す。
俳誌「白魚火」主宰。句集「景色」「瞽女」など。
しばしば来館。
岸 信介 政治家。山口。昭和16年東条内閣の商工大臣。昭和32年首相。
来館日未詳。
服部良一 大阪。エマヌエル・メッテルに師事。日本作曲家協会理事長。昭和54年、勲三等瑞宝章。
「蘇州夜曲」「青い山脈」「東京ブギウギ」など多数のヒット曲を作曲。
昭和43年10月、48年8月来館。
中曽根康弘 政治家。高崎。昭和22年、弱冠28歳で初当選。昭和49年自民党幹事長。昭和57年首相。
しばしば来館。

四万温泉とともにー 積善館の由来

積善館の由来 積善館は「関(せき)」の姓を名乗る当主によって代々受け継がれています。

積善館は「関(せき)」の姓を名乗る当主によって代々受け継がれています。
しかし、祖先は源氏に仕えた「佐藤」姓の武士であったと伝えられています。
その何代目かの子孫(佐藤肥後守清忠)が、1182年(寿永元年)に源頼朝より 下関(現山口県)にあった所領とともに「関」の姓を賜ったことから、 現在の「関」姓を名乗りました。
その後、関家は関東に移り、何代かの変遷を経て群馬県吾妻郡中之条町大字 大岩に居を構えました。
その関家から四万に分家をしたのが、1613年(慶長18年)に没した 初代「関善兵衛(せき・ぜんべえ)」です。

4代目か5代目の「関善兵衛」が現在の場所に湯場と宿を作り(現在の積善館本館の建物)、その後の旅籠宿として開業をしました。

その後、4代目か5代目の「関善兵衛」が1691年(元禄4年)に現在の場所に 湯場と宿を作り(現在の積善館本館の建物で当初は2階建)、その3年後の 1694年(元禄7年)に旅籠宿として開業をしました。
関家は代々この地域で名主をしている家系であり、土地の人は「関善兵衛」 のことを親しみをこめて「せきぜん」と呼んでいました。

明治時代に入り、第15代の関善兵衛が中国の古い儒教の経典「易経」の中 にある『積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり』(善いことを積み重ねた 家には、かならず良いことが起こる。)という言葉に関連させて、 呼び名の「せきぜん」を『積善』と表わし、その下に旅館を表す『館』を付けて、 『積善館』という名前にしました。
現在の積善館本館の玄関に掲げられている大きな木の看板の「積善館」の 文字は、この第15代関善兵衛の筆によるものです。

現在の積善館本館の玄関に掲げられている大きな木の看板の「積善館」の文字は、この第15代関善兵衛の筆によるものです。

300年以上の時を経て 温故知新

元禄4-7年(1691-1964)
旅籠を開業
江戸時代の典型的な湯治宿(二階建)
明治40-43年(1907-1910)
書院風の座敷を持つ三階を増築
昭和5年(1930)
大正ロマネスクを用いた大浴場「元禄の湯」を建築
昭和11年(1936)
本館裏山に当時の建築の粋をあつめた桃山風の山荘を建築
昭和34-54年(1959-1979)
大広間・岩風呂の新設や老朽化した建物の改築・鉄筋化
昭和61年(1986)
老松・竹林に囲まれた絶景の地に純和風の「佳松亭」を建築
  • お問い合わせ
  • プライバシーポリシー
  • サイトマップ
  • このページの先頭へ