2015.05.09
積善館の名前の由来
明治の落語に登場した積善館 ~その4~
関善の家に与兵衛あり~積善の家に余慶あり~
(原文)
やがて番頭がそれへ参りまして・・・
「お前さん御亭主かへ?」
「手前は当家の番頭でござりやす。」
「ハア番頭さんか、当家は何という?」
「関善(積善)と申しやす。」
「番頭さんの名前はなんという?」
「与兵衛と申しやす。」
「なる程、関善の家に与兵衛あり(「積善の家に余慶あり」)というのは面白い」・・・
<『霧隠伊香保湯煙』第三十六席>より抜粋
積善館はもともと「関(せき)」という名字の者が経営に携わっており、
当主は江戸時代から「関善兵衛(せきぜんべえ)」という名を継いでおりました。
このため屋号として古くから「せきぜん」と呼ばれていたのです。
明治時代に入り第15代目の当主が「せきぜん」という屋号を、
中国の古い書物「易経」にある「積善(せきぜん)の家に余慶(よけい)あり」
(善い行いを積む家には、たくさんの慶ばしいことがおきる。)
という文の「積善」に重ねて、現在の「積善館」という名前にしたと言われております。
円朝もこの言葉の意味を知って落語の中に登場させたのでしょうね。