2007.05.17 メディア情報
週刊新潮 柳原白蓮 出湯の系譜
週刊新潮 5月17日号 柳原白蓮 出湯の系譜に掲載いただきました。
2007年5月17日
新潮社
<掲載文>
草津、伊香保と共に上州三名湯の一つに数えられてきた群馬県の四万温泉。上越国境を流れる四万川の清流に沿うように、 約3キロに亘って、山のいで湯が細長く伸びている。中心部の新湯には江戸時代から続く老舗旅館が軒を連ねている。「情熱の歌人」 とうたわれた柳原白蓮が元禄7(1694)年当時の姿を現代に残す 積善館 本館と背後の山荘に足しげく通ったのは昭和32、33年頃のことである。 「白蓮先生は吾妻の婦人会から招かれて中之条町に来訪された後、四万温泉まで足を伸ばして、私共の宿に泊まられました。」と短歌の弟子で 積善館18代女将の関民子さんは語る。柳原白蓮は2人いた子供のうち、長男を学徒動員でとられ、終戦後の5日前に戦死して失うという悲劇に遭った。
「髪が一晩で真っ白になったのよ」と白髪の先生はおっしゃってました。その後“国際悲母の会”を結成し、各都道府県の婦人会に呼びかけ、 日本中を講演して回られました。戦後、一番先に解体されるのは日本の家族制度だ。大和魂の元になる家族関係を守るのは、あなた方母親よ。と力説されました
その後、思い出したように7,8回、積善館に訪れ「ふるさとにかえりしごとき四万の里 若葉の山は抱かむすと」自筆の和歌をのこした。 昭和11(1936)年建設の山荘内にある“茜の一”に宿泊。部屋から眺める山々を京都の山並みに似ているとおっしゃってました 関さん自身は旅館業を19代の娘に譲り「今が一番幸せな時代」と言う。いでの湯の宿の系譜は時代を超え、女達の微笑と共に受け継がれる。